星俊彦さんとの思い出―残してくれたもの―福田雅章 会報79巻頭言より

昨年9月9日朝、ホーム長の石田さんからその一報がありました。状態が悪化してきたことは知っていましたが、こんなに早く逝ってしまうとは。一度もお見舞いに行けなかったことが悔やまれます。

星さんと本格的に活動をともにしていくことになったのは、自立援助ホームの設立に向けて動き出した平成8年暮れのことでした。星さんは、まだ児童養護施設普恵園の職員で自宅には卒園生の居候がいることが常態化していました。星さん家族と居候が少しはゆったりと暮らせる家を借りて、また、みんなで宿直のボランティアをして、星さんの負担を減らそうと考えていました。平成9年7月に青少年の自立を支える会が結成され、9月に自立援助ホーム星の家が開所しました。以来今日まで、星さんとともに社会的養護のために尽力できたことは私にとってのほこりでもあります。

星さんは私にこう言いました。「俺はゲリラで福田さんは正規軍だから」。星さんの行動の根源には社会、現状に対する怒りがありました。やはり思い出すのは、平成12年10月30日の県庁児童家庭課内での職員による私への恫喝事件です。当時、普恵園の労働問題があって、監督官庁の県は頭をかかえていました。星さんはもともと普恵園の職員だったし、星の家を支援する人には組合員も多かったので「普恵園問題の首謀者が星で、黒幕が福田だ」とデマを吹聴する人もいました。正直、私にはえらい迷惑でしたが。

それに輪をかけたのが、星さんが寄稿した下野新聞の「しもつけ随想」での一節。「親に殴られ、入所した施設で施設長に殴られ、移された別の施設で職員にまた殴られて、・・・・」です。担当課は痛いところを暴露されて頭に来たのでしょう。その日たまたま児童家庭課を訪れた私を数人の職員が取り囲み、普恵園問題について詰問し、新聞記事について怒りをぶちまけ、ついには課長が「星は〇〇か!星の家の補助金は考えなくちゃな」と。わずか200万円足らずの補助金を盾に脅してきました。児童福祉に携わって30年、最も屈辱的な出来事でした。

この顛末を話した時の星さんの激怒ぶりは今でも忘れられません。正規軍の私は、大騒ぎすることなく胸にしまいましたが、ゲリラの星さんからしたら、そうした私の振る舞いは不本意で不満だったと思います。今私は、正規軍として栃木県の社会的養護のど真ん中にいますが、県との妥協点を見出そうとする私に、時より星さんが「福田さん、あの時の屈辱を忘れたのか」と苦言を呈します。

平成22年度から自立援助ホームの運営費が措置費として支弁されるようになって、星の家の運営費の大半が公的資金で賄われるようになりましたが、それに胡坐をかくことなく、「だいじ家」、「はなの家」、「月の家」と事業を拡大していくことができたのは、「支援を必要とする子へ必要な支援を届ける」というNPO法人としての理念があったからです。福祉が前に進んでいくためには、妥協することなく理念に従って活動を続けるゲリラは不可欠なのです。

星さんの活動は美談で語られることが多いのですが、その裏でどれほどの苦悩があったことか。アパートの保証人、生活費の援助など、散財はどれほどのものだったか、事務局長して本当に申し訳なく思っています。入居者が星さんを貶めようと虐待通告したり、あらぬ疑いをかけられてパトカーに連れていかれたり。星さんのすごさは、「しゃーねーなー」と受け流し、そんな子にも関わりつづけようとしたことです。

私は、星さんの「時間を味方につながりつづける」という言葉を大切しています。私たち児童福祉関係者は、「子どもの問題をいかに理解し、いかに対応するのか」に関心が行きがちで、自分たちの力量を過大に評価して「成功事例、失敗事例」などと安易に口にしてしまうことがありますが、星さんは、養育には成功も失敗もなく、ただつながり続けることに意味があることを私たちに示してくれました。

 

星さんが人生を賭けて伝えようとしたことを大切にしながら、これからも活動していこうと思います。