私は2023年5月の健康診断の結果と自覚症状により、病院での検査を受けました。そこで「卵巣腫瘍」ということが分かりました。7月末に入院をして8月1日に「腹式子宮・卵巣全摘」の手術を行いました。腫瘍は良性で8月7日に退院しました。私の入院に伴い、俊彦さんにはリハビリを目的に7月末に茨城県の病院に入院をしてもらいました。退院は8月25日の予定でした。私の手術の日は長男の諒平が俊彦さんの面会に行って手術の成功を伝えてくれました。その時の俊彦さんは満面の笑みだったそうです。8月7日の私の退院の日にも諒平と一緒に会いに行きました。その後も妹夫婦に乗せて行ってもらったり自分で運転をして行ったり。でも8月16日~病院でコロナが出て面会禁止に。8月18日には俊彦さんもコロナに。7月の初めに6回目のワクチンを打っていたので軽く済むことを祈っていました。面会が出来なかったのはとても辛いことでしたし、何よりも辛かったのは俊彦さんだったと思います。それでも8月の末に病院から嬉しい連絡がきました。「体調が落ち着いてきたので退院に向けての話し合いを9月7日にしましょう」それなのに9月5日に容態が悪くなったと連絡がきました。9月6日~3兄弟も揃い、一時は自宅に連れて帰ろうとも考えて準備をしたのですが、それどころではないほどの状態になりました。病院にいて俊彦さんの側に居ようと決めました。病院も私の付き添いを許可してくれました。俊彦さんに声が届いていることを信じながら声をかけ続けました。俊彦さんは一生懸命に生きようとしているように思えました。でも9月9日午前1時1分に眠るように静かに息を引きとりました。宇都宮に帰る車を待つ1時間半。私は少しの時間でしたが同じベッドで静かな時間を過ごしました。7月末に俊彦さんを病院に送った時に、俊彦さんは私にこう言ってくれました。「最近は美帆さんに世話になってばっかりだけど今回ばかりは俺が力になるからな。だらかお前もガンバレヨ!」と背中をポンと叩いてくれました。照れ臭くて「うん」としか答えられませんでした。おかげで私は元気になりました。
不思議に思うことがあります。パーキンソンの診断を受けたのと「月の家」ができたのが同じ2014年でした。俊彦さんは、「15歳・16歳で子ども達に出会うのは遅い。もっと早く出会わないと。家庭の支援が必要なんだ」と何年も前から言っていました。もちろん、俊彦さんだけの力ではありませんが、皆で一緒に「月の家」を作って良かったと思います。大切な子どもの居場所を残してくれました。俊彦さんが亡くなった時に、保護者の方から「娘に星さんのことを聞きました。星さんは凄い人なんだよ。星の家と月の家を作ったんだよ。って言っていました」と言われ、私は胸が熱くなりました。「星の家」から歩いて「月の家」に向かう道は急な下り坂になっています。坂の上から右手には県庁が見えます。下ってまっすぐ行くと八幡山公園にも繋がっています。坂を下る手前には駄菓子屋さんもあります。その景色は昼も夜もとてもいいものです。夜、「月の家」が終わり今度は坂を上がっていきます。上がって行きながら「あー俊彦さんは星の家に居ないんだよなぁ」と寂しい気持ちになります。寂しいですが背中には「月の家」があって前には「星の家」がある。車で10分ぐらいの所には「はなの家」もある。ちょうど10年前に出来た「はなの家」「月の家」。「俊彦さん!10年前にパーキンソン、6年前にレビー小体型認知症と診断を受けたけれど大切な場所を作ってくれたことを感謝しています。沢山の人達と出会って沢山の人達と作ってこられてよかったね。」